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  • 2016.08.08 Monday
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    なぜ私を産んだのか

    JUGEMテーマ:読書

    桜散らしの雨が降り,本格的な春へ向けて歩み始めた感じがします。そんな中,読んだ本がこの「阿闍世コンプレックス」。全431ページの論文集です。

    専門書の話なので,興味のない方はご勘弁を。

    S. フロイトはOedipus(エディプス)コンプレックスを提唱,C. G. ユングはElectra(エレクトラ)コンプレックスを提唱しました。他にもA. アドラーの劣等コンプレックスや,シスコン,ファザコンなんて呼ばれるものもありますよね。あとシンデレラコンプレックスとか。

    そんなコンプレックスが乱立している中で,この阿闍世コンプレックスのアイデンティティは「二種類の罪悪感」と「母親の出生アンビバレンス」に集約されると思います(個人的に)。もちろんメインテーマは阿闍世自身の母親に対する葛藤だとは思うのですが,この点に関してはエディプスコンプレックスについてもっと知り,比較検討をする必要があると思うので今回は省きます。

    二種類の罪悪感とは,「おそれ型罪悪感」と「ゆるされ型罪悪感」のことで,自分はこの2分類になるほどと思いました。おそれ型罪悪感とは強いられた罪悪感のことで,処罰型罪悪感とも言われるようです。そして「ゆるされ型罪悪感」とは,悔やみ型罪悪感とも言われ,自発的な罪悪感である懺悔心とニアリーイコールの関係にあるよう。現実の問題に例えてみるならば,
    「学校の窓ガラスを割った→先生がすごく怒鳴った」
    という文脈で感じるものがおそれ型罪悪感,
    「学校の窓ガラスを割った→先生が自分の身体を心配してくれ,『物はいつか壊れるのだからしょうがないよ』と言う」
    この際に感じるものがゆるされ型罪悪感でしょうか。

    そうなってくると,一つ疑問がわいて来ます。
    「学校の窓ガラスを割った→先生がすごく怒鳴った→謝った→受け入れてもらえた」
    という一般的な(今の小中学校では一般的ではないのかも…)プロセスの中感じているものは?という疑問です。この過程ではおそれ型罪悪感を感じた後にゆるされ型罪悪感を感じることになると思われます。罪悪感も対象との関係性,間主観的な何かの変化によって,また時間の変化によって変化するものなのでしょうか。M. クラインは妄想・分裂ポジションと抑うつポジションの関連性を述べていますが,それと同じような動きをするのでしょうか。

    もう一点の疑問。おそれ型罪悪感は強いられた罪悪感であるという風に述べられ,ゆるされ型罪悪感は自発的罪悪感であるという風に述べられています。自分はバイト先で生徒を指導するときに自発的罪悪感を引き出す様にしているんですが,よく考えると,引き出すという行為自体を自発的罪悪感を強いているという様に読みかえることができる気がします。ましてやこの本を読んで,罪悪感の二種を学んでしまった後には,「ゆるす」という行為自体が,罪悪感を強いることとなるということを知ってしまい,「ゆるす」という行為が「相手を許容する」という意味以上のものをメタ的に持つこととなるのではないでしょうか。

    この罪悪感の2つの種類については,これからいろいろと考えて行きたいと思います。2つめの母親の出生に関わるアンビバレンス。産まれて来てほしいけど,産まれて来てほしくない。母親が夫の愛を得(続け)るために,子どもを産む。そうなると,子どもは欲しいのだけれど,産まれて来た子ども自体は邪魔になる。少し単純化しすぎた感がありますが,これは子どもを殴るときは無我夢中で解離様の状態にあり,はっと気づくとぐったりした子どもがいて,それを見て泣きながら謝るというような児童虐待にも関連するところがあると思われます。

    度々言っているんですが,精神分析理論の社会に対する大きな貢献は「記銘」にあると思います。モヤモヤして分からないものに対して何らかの説明をしてくれる。「そうだそうだ」って共感できることによって自分の中にその面があることを気づかせてくれる。そしてそれにはどういう意味があるのか,いろいろな人が考察を加える。これによって人は落ち着くことができるんではないでしょうか。そう考えると,この阿闍世コンプレックスはもっともっと噛み砕いて多くの人に読んでもらえればいいなと思います。確かに一部を取り出せば仏典の解釈の齟齬があったり,フェミニストから攻撃を受けるような部分もあります。たしかにそのような批判は大切で,批判がなければ学問は進歩しません。でも,それをかいくぐりながら世間にそれを伝えて行く姿勢が大切なんじゃないのかなって思います。


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    • 2016.08.08 Monday
    • -
    • 09:10
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      コメント
      『許され型罪悪感』に興味あり〜♪

      相手を許すことはメタ的に相手の罪悪感を強いているのか?
      めっちゃ面白い〜

      個人に罪悪感があって、絶対的な何かに許しを請うのが、より表層にある理解だよね〜
      こう考えると、許す側、許される側の関係性にもよる気がするな、なんとなくだけど。

      今、私、内観に興味があって、
      (してあげたこと・してもらえたこと、ってソーシャルサポート的でもあると思わない?
      罪悪感と感謝、恩と愛について、ざっくりパラパラと調べ中なんだよね〜
      先は見えんし、ほんとに『する』かわからんけど
      罪悪感取り上げてみたいテーマだな〜♪
      • mye
      • 2008/04/18 10:37 PM
      コメントありがとう♪

      個人的には罪悪感って間主観的な空間で生じるものだと思ってるんよね。

      でも,相手がどう意図しているかということはあまり重要ではなく,それを受け取る側がどう感じているか,言い換えるとどう認知するかが鍵になるような気もする。

      でもその認知には相手の思いも反映されるだろうから,そういう意味では双方向型のもので,間主観的なものだと思うのです。

      個人的には,まだまだこの「罪悪感」ってテーマには手をつけがたいって気がしてる。臨床経験を積んで,クライアントさんと直面しないとこの奥深いテーマを扱えない気がね。
      • ゆーき@管理人
      • 2008/05/02 5:01 PM
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